|
古くから伝わる工芸品のほとんどは中国・韓国を経て発展させたものだといわれています。そういったもののひとつである「有田焼」は韓国からの技術を基礎に中国様式を取り入れ、日本独特の美意識によって発達した代表的な伝統工芸品です。そして、その発達には朝鮮陶工たちが欠かせない存在でした。
1592 年・ 1598 年、豊臣秀吉によって行われた「文禄・慶長の朝鮮出兵(壬申・丁酉の倭乱)」は、日本陶磁史にとっては、大きな発達のきっかけとなりました。朝鮮出兵の引き上げと同時に何百人という職人・陶工を日本へ連れ帰り、各領土内で技術発達などのために情報を提供させていたと伝わっています。
西日本を中心に定着した窯業関係の朝鮮陶工といえば、有田焼の李参平(佐賀県)・薩摩焼の沈当吉(鹿児島県)・上野焼(高田焼)の上野尊楷(福岡県)・高取焼の高取八山(福岡県)・萩焼の李敬(山口県)などが挙げられます。その中でも焼物の神様として尊ばれ、今でも親しまれているのは有田焼の「李参平」です。
李参平の子孫である金ヶ江家が保管する「古文書」によると、李参平は初め鍋島直茂公の佐賀城下で過ごします。後に多久長門守に預けられ領内で築窯しましたが、思い通りの焼物が出来ませんでした。それから良い陶土を探し求めて佐賀領内を巡り有田西部へたどり着きます。そこで何度も試作を繰り返した後に有田東部に泉山磁石鉱を発見、 1616 年日本で初めての『磁器』が誕生しました。大量の磁石鉱の確保と燃料の木材調達・水の利便性から上白川地区に天狗谷窯を築き、現在の窯業のシステムに近い「分業化」を確立していきます。それから次第に「有田焼」は日本全国へ供給・世界への輸出と、その名を知られるようになります。李参平はその功績を称えられ出身の錦江島の名をとり、日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と名乗る事を許されました。 |